ふと思い立って,江戸時代の妖怪画家として有名な,鳥山石燕の作品集『鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集』を手に取ってみた。読者諸兄諸姉も,子供の頃に一度は読んだであろう妖怪解説本の,ネタ元ともいうべき絵の数々で,近年でいえば京極夏彦氏の作品が,ここからモチーフを得ていることでも有名なシロモノだ。それが文庫本1冊に収まってしまうのだから,世の中便利になったというか,妖怪にはさぞ住みづらくなったことだろう。 この本では,河童だの不知火だのぬらりひょんだの,おなじみの妖怪が詞書(ことがき)付きの絵(木版画)でえんえんと紹介されているのだが,別に何らかの筋やストーリーがあるわけではない。そこでここでは,通読した結果として意識に浮かび上がってきた三つの“境界”というテーマに基づきつつ,ちょっとした感想を述べてみよう。 一つめは,現世と幽界の境界について。「今昔画図続百鬼」の冒頭には「逢魔時」(おうまがとき)という項があって,黄昏時にさまざまな妖怪が現れるので,子供を外に出してはいけないというような説明がある。現世と幽界は空間的に隔たっているのではなくて,時間的に分けられており,しかもその境界は曖昧である。 ひところ流行した社会史の分野では,欧州なら悪魔や魔女,日本なら怨霊や妖怪が実在すると仮定して思考しないと,前近代の社会慣習(物事の契約や裁判なども含む)は理解できないのだと強調されたが,その江戸時代における名残りを思わせる感覚だ。 そこまで理屈っぽく考えなくても,この本には現世と幽界をめぐって実に面白い事例が収録されている。同じく「今昔画図続百鬼」の中で,ムササビは妖怪扱いなのだ。キツネやタヌキ,カワウソといった,人を騙すという伝承のある動物はさておき,アラド RMT,ムササビ(野衾。のぶすま)の項にはほぼ,動物としての形状と習性しか書かれていない。 「木の実をも喰らひ,又は火焔をもくへり」という説明部分のみ妖怪じみているが,そのほかの部分では「毛生ひて翅も即肉なり」などと,動物として正確な描写がなされているだけである。 考えてみれば,アラド戦記 RMT,妖怪が実在することを前提にしたとき,妖怪と,夜行性の不気味な動物を区別する境界線などない。布団みたいな形をして,鳥も飛ばぬ闇夜を滑空するムササビは立派な妖怪なのだ。野獣とモンスターがともに徘徊するRPG的世界では,どちらも倒すべきMobだったり,忌避すべき凶事だったりするわけで。 次に地域性という境界について
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