「マリア様がみてる」のムーブメントを受けたPCゲーム作品が世に出たところで,今回紹介するのは小林千草氏の『女ことばはどこへ消えたか?』である。いわゆる“言葉の乱れ”のような狭い視野でなく,言葉は遣い手が主体的に選ぶものというスタンスを貫きつつ,室町時代後期,江戸末期,明治後期にわたって,女性特有の語彙や文末表現について考察した,なかなか興味深い切り口の本だ。 著者も指摘するとおり,「?ってよ」「?だわ」といった女性特有の文末表現は,すくなくとも普通の若い女性の日常生活からは排除されようとしており,もはや戯画的に使われるのが関の山である。しかし,そもそもこの表現自体,明治後半に女学生の「てよだわ」言葉として,年長層の嘆きの対象だったことは,それほど知られていないと思う。 著者はその使われ方の実際を,夏目漱石の小説を題材として丹念に追い,場面場面でのニュアンス解説を通じて,和らげたり,甘えたり,距離感を表現したりといった,「女性語」の多様かつ独自の役割を説明していく。 さらに漱石の時代から100年遡った,式亭三馬の「浮世風呂」でも,女性語の文末表現や語彙でさまざまな人物造形が生き生きと描写されている例を列挙し,そこから主に語彙のバックボーンである,室町時代の「女房言葉」に遡っていく。女房言葉とは,朝廷や幕府の女官および高位の女性の間で用いられた表現で,豆腐を「おかべ」(お壁,の意),杓子を「しゃもじ」(杓文字,の意)などと呼ぶ,一連の婉曲表現的な(つまり,当時の感覚で可愛らしい)語彙である。 ちょっと面白いのが「おかず」で,これも実は女房言葉だ。中世において副食を意味する一般語は,「一汁三菜」などというとおり「菜の物」(さいのもの)である。「おかず」の語源を明示するなら「お数」と書くべきで,これは「菜」が複数種類集まった状態から来ている。つまり「惣菜」と書くのと語源からして同じなのだ,FF14 RMT。 実のところ,著者の専門領域は室町時代の言葉であって,この本で読み物として最も面白いのは女房言葉のあたりかもしれない。なんでもかんでも「お?」にしていくと,語頭の読みが同じ物については混同されてしまうことが容易に想像できるが,実際,当時の僧侶が「わけ分からん」的嘆きを漏らしている例も,この本には引かれている。それはそれで正しい意見であるものの,ここまでいくと言葉の乱れを云々すること自体が,たいへん無力な営為に思えてくる。 とはいえ,そうやって言葉を歴史的に相対化するばかりがこの本の趣旨ではない。著者は後半で,「ら」抜き言葉や「?じゃん」という文末表現,「ちがうよ」を「ちげえよ」と発音する例などについて,現役の女子大学生にアンケートを取り,その回答を同様の手法で分析している。このアンケートは一方で,正しい文法の提示であるのみならず,学生に自らの言語生活を省みさせる機会でもある。「げ」など,「が」行音の音便化で端的に分かるとおり,言葉には美醜がつきまとうのだから,どう思われるかもきちんと考えるべきだという話である。 また,現在最も「女らしい」言葉遣いをしているのが,ニューハーフの人々であるといった指摘も,著者が貫く視点との関連で,ある意味興味深い。あえて女性たらんとする人の主体性が,そこに込められるのは必然だ。 「下流の現代語」の変容に「平安末期の院政期から鎌倉初期,あるいは室町末期から江戸初期に生じた日本語の大変化(中略)と似通った様相や原因」を見る以上,「現代の若者の言葉」に「目くじらを立てる気はさらさら起こらない」と語る著者のスタンスは終始ブレることなく,女性語を「いかに生き,いかに表現してきたかの集積」と捉えて,その有り様(よう)を語っている。 この視点で語るなら,現代の女性もまた,言葉は主体的に選んで使えるのだということに,話題は自ずと回帰するわけだ。 冒頭で引き合いに出した話題との関連で捉えれば,ro rmt,言葉はまさに自己表現である。そうであるからこそ,文学で説得力のある人物描写が行えるのであり,1個のキャラクターを築けるのだ。明治に必ずしも評判が良くなかった「てよだわ」言葉が,現代の文脈でどう捉えられているかを,アナール学派の「文化の下方浸透」と結びつけて考えてみたりするのも,なかなか楽しいものだろう。
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